パルパルパピヨン’s diary

なんでも書くのです。

「問いを持ち続ける」ということ

恐らく、「自分なりの問いを持つ」ということは日本人にはなかなか難しいことなのではないかと思います。理由を私なりに考えてみたのですが、どうも学校教育に問題があるのではないでしょうか。

本の学校教育は、テストで良い点数をとることを目指す営みであるといっても過言ではないと思います。仲間との相互的関わりは、成果を上げるための手続きでしかなく、そのこと自体を目的として行われているという訳ではなさそうです(もちろん、学習指導要領には共同学習の重要性を説いていますが…)。テストのために授業があるという図式です。つまり、我々は権威高いところから提示された「問題」を受動的にこなしていくことになれてしまい、自身で積極的に問いを立てたり、深めたりということなど考えることなく過ごしているのです。