Julian Makino’s diary

人間学的な視点から、主に研究について論じます

「正常である」と示すことは医学にもできない

最近、聞いてショッキングだったお話があります。医学に精通されている知り合いの先生からお聞きしたのですが、医学の分野に「正常」はない―つまり、治療とは、間違いなく「健康である」状態へ導く行為ではない―ということです。これには驚かされました。

先生が仰るには、正常とは「異常でない状態」のことであり、異常とは「正常でない状態」のことであるようです。医療の先生方は実際はどのように完治の判断をされているのでしょうか?

病状を引き起こす因子(例えば、脳腫瘍)が取り除かれた後、先生方が治療が完了したと判断されるのには、病状がなくなり、検査結果が一般人と同じ程度のレベルになったか否かに依存するようです。例えば、こちらは予防の例になりますが、血圧計の正常範囲は、最低血圧80以上かつ最高血圧120以下とされています。これは「この範囲に入っていれば健康である」ことを意味するのではなく、「世間一般の人々の大多数はこの範囲に入っている」(正確には標準偏差±2SD以内なので、全体の96%程度)ことを示します。この範囲には、健康な人のみが入っている訳ではありません。全体の96%程度ですので、健康な人や病人の方々も含まれています。正常範囲に入っている人々がその後も健康であったことを示す調査がなされている訳でもありません。

これにはとても驚かされました。医学とは学問の中でも特に客観性を重んじる分野だと考えていましたから。医学における「正常値」とは、全体のうちの大多数の人々が占める範囲だったのです。

表層模倣と深層模倣

模倣は人間の発達において言語習得や動作の獲得など重要な役割を果たします。つまり、人は生きるために模倣を行う訳ですが、研究史における模倣についての議論は一般的に世論に浸透していないのではないでしょうか。今回は模倣を表層模倣と深層模倣とに区別し、論じます。

表層模倣とは、他者の行為の結果をそのまま写し取ろうとする行為をいいます。教師役が手取り足取り動作の方法を教え、子どもはその再現をそっくりそのまま行います。子どもは素直な心で先生役の言う通りに言語(例えば、漢字)や動作(例えば、跳び箱)を習得するでしょう。この点、子どもの習得能力には感服させられます。

一方、深層模倣とは、他者の行為の原因まで考慮しつつ、行為を身に着けようとする行為をいいます。子どもは他者のお手本をじっと見て、自身も試行錯誤しながら他者の行為世界に入り込もうと努めます。

両者の例として、跳び箱の例とチンパンジーの例を挙げます。表層模倣をして育った子どもは、年齢に見合わない飛びぬけた能力を持っているように映ります。なんと、6才で跳び箱の12段を跳ぶ子もいるようです。表層模倣の場合、跳び箱を飛ぶためのエッセンスを教師役から教え込まれ、子どもはそのまま再現し、動作を反復します。つまり、跳び箱についてあまり深く考えることはなく、見かけ上の動作の習得に精を出すということです。それに対して、深層模倣を行うチンパンジーは動作の習得にかなりの時間を要します。アフリカのボッソー地区のチンパンジーはアブラヤシの実を石で割る習慣がありますが、アブラヤシを石の上に乗せ、他の石を手に取って、振り落とし叩き割るという行為は、極めて複雑であり、習得するのに何年も時間がかかるそうです。チンパンジーは、先述の子どもの例のように先輩チンパンジーの行為をそのまま写し取って、割る行為を試みるのですが、なかなか上手くいきません。人間のような言語伝達能力や教育はチンパンジーにはないため、ヤシの実の中身を食べるには、自身で割り方を身につけるしかありません。

そこで、チンパンジーは少し離れたところから、先輩チンパンジーのヤシの実を割る様子を観察します。先輩チンパンジーがヤシの実のどこを見て、どのように石に押さえつけ、どのように打ちつける石を振り上げ、ヤシの実のどこにあてるのか…などなどをつぶさに観察します。つまり、行為者の意図を含めて理解しようとするのです。だから、「少し離れて」見る必要があるのです。

私は模倣において重要視すべきは習得するまでに時間は要しますが、深層模倣だと考えています。なぜなら、意味世界(例えば、跳び箱やヤシの実の割り方)を正に理解しようとする行為だからです。表層模倣では見かけ上の行為の習得が目標となるため、自発的な学びの発展は起きにくいですが、深層模倣は意味世界に住人として入り込み、探求する営みですので意味世界のさらなる広がりが期待できます。例えば、深層模倣で跳び箱を習得した子どもは、その動作の共通性を逆上がりの踏み切り時に気がつくかもしれません。表層模倣では、跳び箱の動作は跳び箱に限定されたものだとしてしまい、このようなことは起こらないでしょう。子どもが自ら学ぶ力をつけるために、「ミテテ、ヤルヨ、ホラネ」というような教化的なかかわりを見直す必要があるのではないでしょうか。

『おしゃべりK子』を読んで

『おしゃべりK子』[1]を読んだ。これは小嵐恵子氏[2]の障がい児教育の実践報告だが、氏が失敗したとお考えだったことも含めて、氏とK子の成長が熱を込めて語られている。要約する。

K子の障がいについてはあまり述べられていないが、肢体不自由重複学級の生徒のようだ。氏はK子と20日間の共同生活を行った。

かかわりの当初、氏はK子にいろんな事をしてあげようとした。車椅子に座っているK子を下ろさせてあげようとしたり、絵本を読ませてあげようとした。しかし、K子は氏が期待するような反応はせず、むしろ急に手に力を入れ、次々に周りをキョロキョロと見まわすなど、氏にとって困った反応を見せた。その反応を受けて、氏はこのように記述している。この思想は重要だと私は考えているので、ここでそのまま引用する。

 

数日K子と接していて、私はまず、彼女に対して失礼な対応をしていたことに気が付いた。彼女に対して「~を見てごらん。~を触ってごらん。~を聞いてごらん。~をしてあげたら喜んでごらん。反応してごらん」といった対応をしていた。(下線筆者)

 

ここで、氏が「失礼な対応」と言っているのは、すなわちK子の気持ちを尊重せず、K子を興味を惹かせる対象としてかかわっていたことであり、それをK子は全く求めていなかったとK子の反応から感じ取れたことを指すのであろう。この後、氏はK子にも人間としてかかわっていきたい世界があるのだと気づき、かかわり方を変える。そのかかわり方とは、K子がわずかでも見たもの、視線を向けたものに対して、説明を加え、共感の言葉を添えることである。その結果、氏はK子の行動(成長)の変化を、氏自身の語る言葉の変化により知り得ることとなる。

氏の言葉の変化は以下のように変容していった。K子の見ているものが「何であるか」(例えば、『絵本だね。テレビだね。』)。K子の見ているものに対する「語りかけや説明口調」(例えば、『○○は今お茶碗を洗うんだよー。』)。活動をK子が「予知する」(例えば、定時の前にK子が車椅子をじっと見るのを見て『はやく乗りたいのー?』)。これらの会話のスタイルの変遷を経て、氏はK子の視線から彼女の気持ちを代弁していく中で、K子の視線が一定時間定まっていること、つまり注視の時間が長くなったことに気がついた。

氏はこの実践の締めくくりとして、子どもが持っている行動を大切にすること、さらに言葉の大切さを説かれている。子どもの持っている世界を大切にしてあげることが、新しく私たちとの世界を形づくることとなり、子どもが見ている世界に言葉を添えることで、私たちは子どもの世界をかいま見ることができるのである。

 

[1] 障害児教育学研究2巻2号pp.8-12(1995年)

[2] 小嵐さんは現在、福井大学客員教授を勤めていらっしゃいます

モノとコト

ある兄弟がいました。食卓にはお母さんが用意してくれた大小1個ずつのリンゴが置いてありました。すかさず兄が大きい方のリンゴを食べました。すると弟は言いました。

 

 弟「ずるいや、兄ちゃん。大きい方を食べて。」

 兄「どうしてだ?じゃあお前ならどっちのリンゴを食べるんだ?」

 弟「僕だったら小さい方を食べるな」

 兄「だったらこれでいいじゃないか」

 

短い話ですが、この話には考えさせられました。人は目の前にあるモノを選んでいるようで、実はモノの背後にある「コト(事態)」を選んでいるのですね。

勉強と学びの違い

勉強とは、外部から規定された「身につけるべきこと」を学習者がそっくりそのまま写し取る行為のことをいいます。例えば、学校教育はカリキュラムに沿って、最終的に生徒に身につけさせたい技能・態度などを逆算して授業計画が立てられる目標準拠型教育をとります。そのため、1回ごとの授業における目標も細分化されます。授業の設計は全て教師側にあり、生徒は「身につけるべきこと(問題の解き方、考え方など)」をそのまま吸収しようするのが特徴です。

それに対して、学びとは自身の意欲のまま「身につけたいこと」を探求し、興味の世界を発展させる試みのことをいいます。例えば、高機能のデジタル時計をプレゼントされたことを嬉しく思った子どもが、友達に羨ましがられたり、大人に褒められたりする日々の生活のなかで時計に対する興味が広がり、算数や数学についての探求が広がった場合などでしょう。私は「勉強」と「学び」をこのように区別するのがいいのではないかと考えます。

多くの場合、子どもにとって前者は苦であり、後者は楽しいものでしょう。生涯に通ずる感性を育む重要な児童・青年期に、勉強ではなく学びによる教育がなされることを私は願っているのですが…

ピアジェ理論の破綻と人間観

 シリーズの最後に、なぜピアジェ理論は破綻したのか?を考えたいと思います。そこにはピアジェの人間観―ピアジェは人間をどういう存在として捉えていたか?―が大きく関係すると考えられます。

 では、ピアジェのキャリアから探っていきましょう。シリーズ1でもお伝えした通り、ピアジェ生物学者で、ものごとの自然な成り行きを観察・記述する観察法をとっていました。ここで重要なのは、ものごとがどうなっていったのかを、客観的に記述したという点です。「三ツ山問題」「数・量の保存課題」「誤信念課題」のいずれにおいても、子どもたちに問題の設定を客観的に伝えたということです。そこには、子どもの問題理解への配慮や子どもとかかわろうとする応答は全くなかったでしょう。ピアジェは子どもを人間として見ずに、すなわち「観察物」とみなして実験したのです。ここがこのシリーズの論点です。

 反証実験を思い出してください。「三ツ山問題」では子どもは「どうしてそんなことが問題になるのだろう…」と感じたはずです。一方、反証実験では「泥棒の僕が警察官から逃げるにはどうしたらいいだろう?」と子どもは思考でき、正答を導けました。「数・量の保存課題」では「ヒビが入っちゃったからコップを変えようと思うんだけど…」と、水を別のコップに移す作業に子どもが納得のできる理由が添えられていました。「誤信念課題」の反証実験であるオオニシ・バイヤルジョン実験では 、実験者が子どもと好意的に「かかわろう」としてかかわり(当然、赤ちゃん側もかかわりたいでしょう)、実験状況を「不思議がる」反応が見られました、つまり意図と反する状況であると分かったということです。これらの反証実験の実験デザインに共通することは、子どもの理解が得られる問題設定を行ったこと、実験者が子どもに応えようとかかわったこと、という二点が挙げられます。ここで、実験者が実験参加者(子ども)とかかわってしまったら、実験参加者の具える性質がそのまま現れないのではないかと疑問を持つ方がいらっしゃるかもしれません。しかし、「子どもが他者とかかわろうとする存在」である以上、実験者が子どもに応えることもまた子どもらしさ、つまり実験参加者の性質の現れを引き出すと考えられるのではないでしょうか。

 ピアジェの実験には根本的な誤りがあったのです。人間である実験参加者(子ども)を人間としてみないで実験したのであれば、人間としての発達段階が示されたとは言えないでしょう。つまり、ピアジェの理論は人間の発達の傾向を示すに留まり、「発達の本質」には至っていなかったといえます。しかし、ピアジェ理論が全くの無意味な産物であったと言うつもりは全くありません。前述の通り、人間の発達を体系だったものとして発表したとても優れた理論ですし、発達の大局的な枠組みとしては確かに機能します。

 問題なのは、私たちがこれを盲目的に万能な理論として受け取ってしまうと、大変なことになることでしょう。例えば、今回の例でいうと、世間一般の人は5歳までの子どもを「自己中心的であり他者の心が分からない存在」とみなしてかかわることになります(しかし実は、子どもは他者の心が分かっている!)。人間としてではなく、それこそモノのように扱われた子どもたちは反発してしまうのは無理もないことです(さらに、この「反発」も自己中心性の根拠とされると、負のサイクルから永遠に抜け出せません)。

 私の大学院では「子どもを人間としてみること」を理念に掲げています。言われれば当然なのですが、人間を研究対象とするのであれば、「人間とはどのような存在か」という問いなくして人間にまつわる研究の発展や深まりはないのではないでしょうか。「他者を人間としてみること」…人間が関わる活動のすべてはこの言葉の延長線上に来なくてはなりません。その活動のさらに延長線上に、豊かさや幸せが広がっているのではないでしょうか。

 

実験参加者をどう見るかによって、実験参加者ができることが規定されてしまう!! ピアジェ理論の破綻 3

 今回は、ピアジェ理論がいかにして否定されたのかについて言及します。しかし、インターネットからはなかなか根拠となるサイトを検索できなかったため、図表を含めた詳細な記述は控え、ここでは実験概要を示し、次回はピアジェ理論との相対比較によって導き出された大切な知見をお伝えしたいと思います。

 前回は「三ツ山問題」「数・量の保存課題」「誤信念課題」から、ピアジェ式発達段階で子どもはどのような能力が獲得されているのかを示しました。これらの反証実験を一つずつ見ていきたいと思います。「三ツ山問題」では、子どもは「別の場所からの視点を推論することができるか」を問われましたが、ボークは同様の課題を問題設定を変更して実施しました。それが、「警察と泥棒問題(牧野が恣意的に名づけた)」です。子どもは「田んぼの田」の中の「十」が、「田」の側面に触れていない模式図―その未接地域に警官がいる―を見せられ、「○○くんが泥棒だったら、どこ―「田」の中の四つの空間―に隠れたら警察に見つからないと思う?」と問われます。「三ツ山問題」では3~5歳の子どもは正答できないとされましたが、「警察と泥棒問題」では正答できたようです。つまり、ピアジェ風に言えば、「推論能力」があった結果となります。次に、「数・量の保存課題」ですが、ここでもおはじきの長さが変わっても、容量の異なるコップに水を移しても、その前後が「同じである」と子どもたちは答えました。実験モデルの変更点としては、例えばコップを移す際に「ヒビが入っていたから、別のコップに移そうと思うんだけど~」などと実験者が状況にふさわしい理由を付加しました。最後に「誤信念課題」ですが、ピアジェの実験では、パンの在り処を知らないはずのサリーの心を推測することができるかを子どもたちは問われ、4歳までの子どもたちは正答できない―つまり「他者の心」がまだ分からないとされました。しかし、2005年に行われたオオニシ・バイヤルジョン実験では生後15カ月の赤ちゃんでも「誤信念課題」が解ける可能性が示され、度重なる論戦の末、この結果は信頼性が高いと帰結しました。この実験では、実験者がスイカが入っている箱の位置を知る由がないにもかかわらず、当たり前のように正解の箱を選択する実験者を赤ちゃんが見ると、不思議がるようにじーっと見つめる様子が映し出されました(他にも実験条件はあります)。ここで、「不思議がる」様子というのは、「実験者が知らないはずである」ことが分かっていないと表出されません。つまり、赤ちゃんは実験者がしようとすることが分かっていたのであり、他者の心が分かるのだといえます。

 今回は以上です。次回はこのシリーズの最後としまして、まとめと研究全体から垣間見れ背後に潜む原理(これが大切!!)を指摘したいと思います。