パルパルパピヨン’s diary

なんでも書くのです。

実験参加者をどう見るかによって、実験参加者ができることが規定されてしまう!! ピアジェ理論の破綻 3

 今回は、ピアジェ理論がいかにして否定されたのかについて言及します。しかし、インターネットからはなかなか根拠となるサイトを検索できなかったため、図表を含めた詳細な記述は控え、ここでは実験概要を示し、次回はピアジェ理論との相対比較によって導き出された大切な知見をお伝えしたいと思います。

 前回は「三ツ山問題」「数・量の保存課題」「誤信念課題」から、ピアジェ式発達段階で子どもはどのような能力が獲得されているのかを示しました。これらの反証実験を一つずつ見ていきたいと思います。「三ツ山問題」では、子どもは「別の場所からの視点を推論することができるか」を問われましたが、ボークは同様の課題を問題設定を変更して実施しました。それが、「警察と泥棒問題(牧野が恣意的に名づけた)」です。子どもは「田んぼの田」の中の「十」が、「田」の側面に触れていない模式図―その未接地域に警官がいる―を見せられ、「○○くんが泥棒だったら、どこ―「田」の中の四つの空間―に隠れたら警察に見つからないと思う?」と問われます。「三ツ山問題」では3~5歳の子どもは正答できないとされましたが、「警察と泥棒問題」では正答できたようです。つまり、ピアジェ風に言えば、「推論能力」があった結果となります。次に、「数・量の保存課題」ですが、ここでもおはじきの長さが変わっても、容量の異なるコップに水を移しても、その前後が「同じである」と子どもたちは答えました。実験モデルの変更点としては、例えばコップを移す際に「ヒビが入っていたから、別のコップに移そうと思うんだけど~」などと実験者が状況にふさわしい理由を付加しました。最後に「誤信念課題」ですが、ピアジェの実験では、パンの在り処を知らないはずのサリーの心を推測することができるかを子どもたちは問われ、4歳までの子どもたちは正答できない―つまり「他者の心」がまだ分からないとされました。しかし、2005年に行われたオオニシ・バイヤルジョン実験では生後15カ月の赤ちゃんでも「誤信念課題」が解ける可能性が示され、度重なる論戦の末、この結果は信頼性が高いと帰結しました。この実験では、実験者がスイカが入っている箱の位置を知る由がないにもかかわらず、当たり前のように正解の箱を選択する実験者を赤ちゃんが見ると、不思議がるようにじーっと見つめる様子が映し出されました(他にも実験条件はあります)。ここで、「不思議がる」様子というのは、「実験者が知らないはずである」ことが分かっていないと表出されません。つまり、赤ちゃんは実験者がしようとすることが分かっていたのであり、他者の心が分かるのだといえます。

 今回は以上です。次回はこのシリーズの最後としまして、まとめと研究全体から垣間見れ背後に潜む原理(これが大切!!)を指摘したいと思います。

実験参加者をどうみるかによって 実験参加者ができることが規定されてしまう!! ピアジェ理論の破綻 2

前回はピアジェ理論の概観について触れました。今回はピアジェ実験の内容をまとめたいと思います。

繰り返しますが、ピアジェの理論は現代では否定されています。他人の立場に立って物事を考えられない幼児の気質をピアジェは「自己中心性」と呼び、幼児期では心の理論が未発達であると結論づけ、また状況が変わっても同じであり続ける性質である「数・量の保存課題」も、幼児はパスできないとしましたが、現代では幼児だけでなく乳児でさえも「他者の心」が分かっており、「数・量の違い」が分かると言われています。今回はピアジェ理論ご紹介しますが、次回以降は反証実験を示し、なぜ「パラダイムの転換(時代の根本思想がひっくり返ること)」が起こったのかを探っていきます。

ではまず「三ツ山問題」です。

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図1 三ツ山問題 (参照: https://www.edu.shiga-u.ac.jp/~watanabe/sub2-1.htm


図1のような図形を子どもに見せ、各方面(ABCD)からそれぞれ山がいくつ見られるか、など今いない視点から物事を把握することはできるかを問います。ピアジェは、前操作期(2~7歳くらい)にあたる子どもはこの課題に

正答できず、別の視点から物事を捉えられない時期としてその気質を「自己中心性」としまし

た。続いて、「数・量の保存課題」です。

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図2 数・量の保存課題 (参照: http://kg.kanazawa-gu.ac.jp/kokusaibunka/?p=2258を一部加工・修正)


図2の左側をご注目ください。同じコップにはいった同じ量の水(量の保存課題)、同じ数のおはじき(数の保存課題)とがあります。これらを別の形のコップに移し、またおはじきを同一直線上に延長します。そして、子どもに「水の量は同じかな?」「おはじきの数は同じかな?」などと質問すると、大体の子どもは「増えた!」と答えます。この結果をピアジェは、子どもとは物事の見かけに騙されやすく、論理的に考えられないと結論づけました。最後に、「誤信念課題」です。

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図3 誤信念課題 (参照:https://teachers-job.com/asdgoshinnen/


図3で
は、自身がおいたパンが移動させられていることを知らないサリーが家から帰ると、サリーのバスケットとアンの箱のどちらからパンを取り出そうとするかを子どもに問います(正解はサリーのバスケットから取り出そうとする)。しかし、幼児期の多くの子どもはアンの箱を選んでしまいます。これをピアジェは、4歳未満の子どもは他者に心があると推論する能力(いわゆる「心の理論」)が未発達であると結論づけました。

以上がピアジェによる実験です。その結果、前操作期(2~7歳頃)の子どもの特質として、「自己中心性」があり、「数・量」の理解が不十分であり(~4歳頃)、「他者に心があること」が分からない(~4歳頃)、としました。当時は体系立った発達の枠組みはまだ確立されていなかったため、大きな反響を呼びました。

次回は、ピアジェの反証実験に触れたいと思います。 

実験参加者をどうみるかによって 実験参加者ができることが規定されてしまう!! ピアジェ理論の破綻 1

理論は人々の生活や考え方に大きな影響を与えます。一般人の「物事の考え方」は知らずのうちに理論にコントロールされているかもしれません。今回はかの有名な「ピアジェの発達理論」を取り上げ、その概要と理論の前提となっている人間観、そして「我々は理論をどう捉えて生きていけばいいのか」、などを探求します。(ピアジェはタイム誌発表の「20世紀で最も重要な・偉大な100人」にランクインされるほどの研究者です)

はじめに、ピアジェ理論の発達思想です。発達心理学の教科書でピアジェは、「個人能力還元主義」をとると紹介されています。つまり、個人が様々な能力を獲得していく過程が発達である、としているのです。ピアジェは人間の発達段階を「何かを操作する」という観点から以下の4段階に区分しました。①感覚運動期(0~2歳)②前操作期(2~4歳)③具体的操作期(5~12歳)④形式的操作期(13歳~)(厳密には、④は弟子であるエリクソンが後に付け加えたと言われています)。①→④に向け、だんだんと「何かを操作する能力」が獲得されるとしました。また、「表象」という言葉によって、人間特有の高次な思考方法を説明しました点も重要な指摘でした。表象とは、現実で触れる様々なモノ・コトを理解するための意識の体系のことです。例えば、犬を例に挙げましょう。なぜ私たちは、トイプードルでもミニチュアダックスフントでもブルドックでも野良犬でも、それらを見た瞬間に「犬だ!」と分かるのでしょうか。それは、それぞれを個別に捉えているのではなく、何か抽象的な「犬としての意味まとまり」なるものが頭の中で発達しているからだとピアジェは論じ、それを「表象能力」や「シンボル思考」という言葉で表したのです。ピアジェの大きな貢献は、これらの発達段階の整備を行ったことや表象能力の発達を示したことに見て取ることができます。

次にピアジェの人間観(研究観)についてです。ピアジェの名が広く知られている割にあまり知られていないこととして、彼が生物学者であることが挙げられます。つまり、実験対象を「観察」し、「自然のうちに」どうなっているのかを調べ、理論としてまとめる手法が<ピアジェ式研究法>ということです。ピアジェの理論をベースにして、「三つ山問題(相手の立場から思考ができるか)」や「数・量の保存課題(状況が変わっても同じままでいることがわかるか)」、そして「誤信念課題(他者に心があることがわかるか)」などがつくられ、課題にパスできる年齢とできない年齢を量的研究によって明らかにし、5歳までの子どもには「自己中心性」がある、7歳までの子どもは「論理的思考」ができない、などとされてきました。

一般的に、これら結果は受け入られやすいと思います。子どもは相手の気持ちがまだ分からないからよく自己主張するのだろうと考えられますし、物事を整理して考える力もまだ未熟であると言われると、自身の経験から「確かにそうだったよなあ…」と妙に納得してしまうのではないでしょうか。

しかし、ピアジェの理論は近年では否定されています。三つ山問題や数・量の保存課題、そして誤信念課題は乳幼児期(0~2歳)の子どもでさえもパスできるという報告がなされています。その詳細は次回で触れたいと思います。

今日はこの質問で締めたいと思います。「ピアジェ理論の問題点」とは何だったのでしょうか?

教育の視点 -子どもをどういう対象としてみるか?-

皆さんが必ず通る「教育」という道はどのようなものでしたか?あなたは友だち先生やかかわっていく中で、どのように成長していきましたか?今回は私の専攻の授業内容から、日本の教育とはどのように始まり、実施され、どのような問題点が現在にあるのかなどを考えます。

ではまず現行の教育制度はどのように始まったのかを見ていきます。学校制度は明治時代に、大久保利通の指導の下、西欧の「近代化」に遅れてないよう一般市民を訓練することが急務だとして始まりました。当時、大久保が公式に政府へ提出した「意見書」や「建書」によると、「無識文盲ノ民」、「無気無力ノ人民」などの文言が見られます。つまり、「教育のはじまり」とは、人々が無能であるという前提の下で、無能な民を教え導くこと(教化主義)を理念として掲げられたといえます。これは皆さんの教育に対するイメージと合致しているのではないでしょうか。

 教育が無能な民を有能な人材へと導くことを根幹としており、またその環境の下で児童期や青年期を過ごしていたので、この教化思想は私たちの「気質」にまで埋め込まれていると考えられます。他者を自分と同じ「尊厳ある人間としての存在」として接することが私たちにはできなくなっているのです。或いは、自分が人間としての存在であることにも忘れてしまってはいないでしょうか。私にはそれら発露が、世の中で巻き起こる殺人事件や自殺問題、戦争のように思えます。

 今、必要なことは教育の前提を問い直すー「人間とはどのような存在か?」という問いから、教育システムを作り直すーことです(人間は「無気無力ノ人民」ではない)。そのために、僕は大学院で学んでいます。皆さんも、近くの人々が発している人間的な「訴え」と素通りせずに向き合ってみましょう。人間としての存在である「私」と「他者」を実感していきましょう。これらは小さい時に出来た当たり前のことですが、「教育」によっていつの間にか出来なくなっていたことです。私たちは人間として生まれ、人間として生きなければなりません。

練習ではなく生活

先ほど、日本テレビの『スッキリ』で12歳の天才ウクレレ少年の特集が放送されていました。近藤利樹くんはどのようにプロ選手になっていったのか、その秘訣は何だったのか、などが話題の中心でした。

 利樹くんは、小学生の間、1日に2~3時間の練習を欠かせなかったそうです。本人は練習をしている感覚などないようで、ウクレレが生活の一部となっているようでした。つまり、効果的なメソッドを用いてウクレレが上達した訳ではなく、ウクレレに夢中になっていることが練習を苦痛な訓練として置換されず、自然と毎日ウクレレと触れ合えるようになったようです。

ここまでは、よく議題に挙がる話だと思います。本人がやることは、本人の意思の下で決めていけばいいという考えは親なら誰しもが思うところでしょう。しかし、それだけではまだ不十分です。子どもが心から楽しいと思える対象を見つけても、それが子どもの暮らす環境に根差していなければ、好奇心は発展していきません。

利樹くんの母親は、ウクレレをリビングのソファーに常に置くようにしたそうです。利樹くんからすれば、好奇心の対象が常に生活の中にあるというのはとても嬉しかったのでしょう。子ども本人が持つ「夢中」と生活の一部にあるという「環境」がかけ合わされて、プロのウクレレ少年は生まれたのではないでしょうか。

そう考えると、「天才」という文言はどうも違和感を覚えます。もちろん、利樹くんにそれなり資質はあったのかも分かりませんが、私には絶対的な天性があったというよりも、興味の対象を探し出し、好奇心が自然と伸びていく環境を整えたことに要点があると思うのです。

両親にとって肝要なのは、①子どもが好奇心の対象となるものを探し出せるために、多様な経験に触れさせること②その対象を生活の中に取り入れること、ではないでしょうか。

NHK 「AIがテレビを変える」をみて

昨日放送のNHKAIがテレビを変える」をみました。私はAIが昨今のテレビ離れをどのように引き起こしたのかを探る番組とばかり思っていたのですが、全く違いました。番組の趣旨は、AIがいかにテレビ業界を助けるのかということでした。

 番組の趣旨からは離れますが、私は人間学専攻の者ですので、AIがどのような影響を人間に及ぼしうるのかについての現状把握と、AIが日常に介入することで、今後どのような人間像が構築されうるのかについてを考えてみたいと思います。

 まず、AIの現状ですが、大きな争点として「情報のパーソナル化」が挙げられます。YouTubeNetflixなど様々なソーシャルメディアAI技術を駆使し、“あなたへのおすすめ”機能を導入しています。過去に見た動画のジャンルやその視聴時間、見終えたタイミングなどをAIが学習し、その時点における最も視聴されるであろう作品を提示します。なんと、その他にも好きな女優や俳優をリストアップし、サムネイルとして提示することで、視聴時間を向上させようとすることもできるようです。しかし、このような自身の趣味嗜好に合ったサービスを受けられるのは便利で嬉しいことではありますが、その反面フィルターバブル(自分の好みの泡の中だけで生活すること)になり、他者への非寛容意識を育みかねないという懸念もあります。

加えて、「自身における選択性の欠如」を生み出しかねないという点も指摘しておきます。“あなたへのおすすめ”機能は、確かに自身の趣味嗜好の反映ではありますが、そのお膳立てをしてくれているのはAIです。このいわば「過度の押し売り」によって、私たちは自身が自身についてを確かに選択している訳ではなく、選択させられているのです。この環境が常態化すれば、マリオネットのような虚偽の運動をさせられることとなり、自分が心から本当に望んでいる「やりたいこと」を自分の力で見つけることができる人間にはなれないのではないでしょうか。

恐怖との対峙

心理学用語にフラッディングという言葉があります。動物などにトラウマを抱える人が、その恐怖を克服するためのトレーニングのことを指しますが、これは恐怖の対象を比較的長い時間見続けることにより、被験者は一定の効果を得ます。この際に気を付けなければならないのは、恐怖の対象との対峙時間があまりに短すぎると、かえって恐怖の度合いが増幅されかねないという点です。

しかし、恐怖の対象が特定の人や動物などの分かりやすく存在するのではなく、「集団」や「文化」などの集合的かつ不可視的な「概念」であるならば、フラッディングは有効でしょうか。恐怖の対象が大きすぎる場合、我々はそれとどのように対処していけばいいのでしょうか。

私はこの「大きすぎる恐怖の対象を抱える人々」のことをマイノリティと呼んでいます。主に障がい者の方やいじめを受けている方々、LGBTの方々が含まれています。私は未熟者ではありますが、これらマイノリティの方々を対象として、大学院生活、ひいてはその後の進路を尽力していきたいと思っています。